真珠湾奇襲攻撃に至る迄の日米関係
現在では緊密な同盟関係にある日本とアメリカですが、79年前には戦争状態にあった事を
大抵の人は忘れています。
日本とアメリカの産出する地下資源の量、科学技術力や工業生産力の差は歴然...どう考えても日本に勝ち目はない。
時の連合艦隊司令長官 山本 五十六も日米戦に関してこう語っています。「最初の一年や二年は暴れてみせます。その後は責任が持てません。」
では何故、日本はアメリカに戦争を仕掛けたのか?
1929年に発生した世界恐慌に起因する日本経済の落ちこみの中、爆発的に増加する日本の人口を養ってゆく為には、中国大陸...特に満州への進出が日本にとっての生命線でした。
日清戦争&日露戦争での日本の勝利は、明治維新を経て漸く近代国家への道を歩み始めたばかりの小国日本が清やロシアという大国に勝利した事は西洋諸国に衝撃を与えました。
同時に日本国民の中にも、「日本軍は強い。大国に負けることはない。」という自惚れを抱かせたのかも知れません。
日清戦争の勝利で得た遼東半島や南満州鐵道の権益は、フランス&ドイツ&ロシアによる三国干渉を受け、放棄せざるをえなくなりました。
しかしそのすぐ後、日本が権益を放棄したばかりの遼東半島にロシアが進出。この臥薪嘗胆の想いが日露戦争へと繋がります。
日露戦争にも勝利した日本は、遼東半島の
租借権や南満州鐵道の権益を漸く獲得します。
世界恐慌に起因する日本経済の落ちこみ、特に地方の小作農家の困窮は、社会主義・共産主義の台頭を促しました。
更には困窮する小作農家出身の部下を持つ陸軍将校に社会変革への切なる想いを抱かせることになり、やがて五・一五事件や二・二六事件を起こさせることになります。
さて、話は満州に戻ります。
当時の満州及び中国大陸は西洋諸国や日本等列強による半植民地化状態にありました。
なおかつ複数の勢力(中国国民党、中国共産党、地方の軍閥)が群雄割拠する状態にあり
混沌としていました。
日本は中国国民党軍や一部軍閥と交戦状態にあり、中国国民党軍は中国共産党軍と交戦状態にありました。
満州に於ける最大軍閥である張 作林打倒を目論む関東軍の高級参謀 河本大作大佐が起こし「張 作林爆殺事件」や「柳条湖事件」→「満州国樹立」は、統帥権干犯問題を盾に独断専行する出先の軍隊を中央政府が抑えきれないという風潮を常体化させてしまいました。
「満州国樹立」は欧米諸国の反感を買うこととなり、日本は国際連盟脱退、孤立の度を深めます。そのような中、日本の世論に一筋の光明を与えたのが、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツの快進撃でした。
「バスに乗り遅れるな...」 日本は日&独&伊三国同盟締結に踏み切ります。
話をアメリカとのことに戻すとしましょう。
中国大陸では満州・蒙古地域の掌握を目論む「北進論」と、インドネシアやシンガポール一体の地下資源の獲得を目論む「北進論」というふたつの動きがありました。「南進論」に従い、南部フランス領インドシナに進駐した日本。これに対し、アメリカは在アメリカ日本資産の凍結・鉄鉱石や石油の対日禁輸等の対抗処置を発動...国際的にはABCD包囲陣により日本を囲い込みします。
「ジリ貧を恐れていては、ドカ貧になってしまう。」との世論、「ナチス・ドイツの快進撃に依る大英帝国敗北も近いのでは?」との楽観論の中、対米開戦の気運は高まってきます。
しかしながら、日本政府に於ける基本的方針は対米英戦争回避、それに向けて粘り強く外交交渉を継続中でした。
そんな中、アメリカから提示されたのが、所謂「ハル・ノート」~ これまでの日米交渉に於ける日本のギリギリの譲歩案を全て否定するもの ~ でした。
〈ハル・ノートに関して、ハル国務長官は、
時が来る迄日本政府をあやしておこう、と語っています。時とはアメリカが本格的に対独戦争に参戦、ナチス・ドイツが崩れる時を指しています。〉
「ハル・ノート」を提示された日本は、アメリカとの戦争回避に向け、ローマ教皇やロシアによる仲介を画策する一方、万が一交渉が決裂した場合の対英米開戦の準備も並行して開始します。
かってアメリカ留学した際に目にしたアメリカの工業生産力やアメリカ人の国民性をよく知る山本五十六連合艦隊司令長官は、「緒戦に於いてアメリカ艦隊に徹底的ダメージを与え、戦意を喪失させることで戦争を早期に終結させること」を第一に考えて、航空母艦艦載機を用いたアメリカ太平洋艦隊の本拠地 ハワイ 真珠湾への奇襲攻撃を計画します。
山本長官が日本政府に念押ししたのは、「攻撃開始の前に、アメリカ政府に必ず対米交渉打ち切り・宣戦布告の文書が手交されていること」...つまり騙し討ちとなり、アメリカ国民を怒らせしまうことでした。
日本政府から駐アメリカ日本大使館に送られた外交文書は〈暗号化〉されており、現地の日本人スタッフは乱数表と照らし合わせて、外交文書を日本語化した後、英語への翻訳作業が必要でした。
だた運が悪いことに真珠湾奇襲攻撃の前日、昭和16年12月7日は、転勤となる大使館スタッフの送別会が開かれていた為、8日はいつもより遅い時刻に、いつもより少ないスタッフが出勤...タイプライターの取り扱いにも慣れていないので、アメリカ政府に手交する正式文書が仕上がり、ハル国務長官に手渡した時刻は真珠湾奇襲攻撃が終わった後になってしまいました。
アメリカ国民を怒らせてしまい、「リメンバー・パールハーバー!(真珠湾を忘れるな!)」という結果を招いてしまいました。
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